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山田妙子Side

 

”山田妙子”の一日は通信機のチェックに始まる。

端末の画面を覗き込み、その画面に何の変化、この場合は連絡の履歴の類、がないことを確認すると安堵が含まれたため息を吐いた。

その安堵の理由は彼自身よくわからない。安堵を覚えていることは確かだった。

同時にその理由を明文化するのは、砂場で落としたコンタクトレンズを拾うような困難さを感じていた。

毎日習慣化した生活を体が受け入れつつあるのだろうと一人納得して、7時にセットしたものの持ち主に先を越され結局鳴る事のなかった目覚まし時計のスイッチをOFFにする。

これも毎日のことだった。彼は仕事柄眠りが浅いことが多く、目覚まし時計に頼らずとも毎日同じ時間に起床することは可能だった。

目覚ましをセットして眠る必要があるのかということになるのだが、これもまた奇妙なことに思われた。

何かしかの習慣性を見出しているのかもしれないし、若い女生徒とはそういうものだというイメージが無意識に刷り込まれているのかもしれない。

今となってはそうしなくては、どこか落ち着かないというのが本人にとっての最大の理由である。

若干丈の長い水色のパジャマの上下を脱いで、タオルや歯ブラシなどの洗面用具を手に取りバスルームに向かう。

この学園に通う生徒たちより年を食っているとはいえまだ若く、故に新陳代謝の機能が活発で、汗や脂分も多く分泌されるため、毎日朝のこの習慣は欠かすことができない。

バスルームの床のタイルは冷たく、半分寝ぼけたままの修史の足裏に感触を伝えてくる。

ノブを40度を少し超える程度の温度に合わせノブを捻った。

 

「っ! つ、つめたい……」

 

思わぬ冷たさに叫びそうになった声は、尻すぼみになりバスルームに消えた。

湯を出すようにしたところで、捻ったばかりのシャワーから温水が出る事を期待するなど、目覚めたつもりではあったものの、まだ頭の中は眠ったままらしかった。

ようやく暖かい湯が出てきたところで、安心してシャワーの湯を全身に浴びた。

多めのシャンプーを手に取り、頭皮を指の腹でマッサージするように洗い、それが終われば髪を両手で挟みながら脂を落としていく。

潜入に当たって、面倒ごとは数多いが、そのなかでも最も面倒だと言っていいのがこの髪の手入れだと考えていた。

肩甲骨の当たりまで伸ばした髪を、不潔や枝毛等、さまざまな面倒から守り維持することはなかなか骨が折れる作業で、世の女性たちを尊敬せざるをえない。

男でも長く髪を伸ばす連中がいるが、何を好きこのんで伸ばすのやらまるで見当がつかない。

大抵は清潔にしているつもりでも不潔に見えてしまうものだ。

シャンプーをしっかり流すとコンディショナーを手に取り髪に馴染ませる。

そして顔を念入りに洗顔で洗った後は、スポンジにボディソープを含ませて泡立てながら全身を洗っていく。

ふと横を向き、鏡で見た顔は、どう見ても若い少女のもので、潜入するに当たって問題は見当たらなかった。

 

(……まあ自尊心とかそのあたりの問題は多々ある……けどまあそれは考えないことにしよう、うん )

 

華奢な骨格にh細いので服を着れば体格は女性に近く、白人男性のような逞しい筋肉は望むべくもない。

 

(ま、こんなだからこんな任務にまわされたんだろうが……感謝すべきか恨むべきか……)

 

潜入にあたって、外見的に問題がないか、修史は入念に鏡を見てチェックしていく。

外見的には十人に九人が信じないだろうが、修史はもう20代に乗って数年経つ。

10代よりも体力は増したが、反面回復力が落ち、体の柔らかさが少しづつ失われていっていることに修史は気づいていた。

肉体を資本として日々食べてきたのだから、もっとも重要な財産である自分の体については観察が鋭くなる。

 

(あと何年、こんなことで生活していくんだろ……)

 

一通りの学問は訓練で行った。あまりにも世情を知らなくては、潜入などはもとより日常の任務にすら差し支える。そういう判断だろう。

ファランクスが慈善事業で教育を行うなど怖気が走る想像だった。

 

(この仕事しか、おそらく自分にはない)

 

そう思い知っている。

それでも、他に何か、もっと別の何か、考えることもくだらない何かのIFがあって、こんなところにはいなくて、普通の人のように暮らしている可能性を修史は時折夢見る。

 

一通りシャワーが終わりバスルームを出て、衣服に手を通し、一生縁などないはずだった化粧を顔に塗っていく。

潜入前の訓練に加え、半年続けた結果習熟したのか、慣れた手付きだった。

嫌悪するほどではないが、好んで慣れたいと思うようなものでもない類の慣れだった。

最後に鏡で顔を確認し、枕元の端末に手を伸ばし再び液晶画面を眺める。

先ほどと同じく、画面には何も映っておらず、バックライトの消えた液晶に室内の電灯が映りこんでいるだけだった。

何も写していない端末を再度確認する。

今度の確認は、まどろむような生活の継続の確認だった。

対立派閥の放った暗殺者の気配に命の危険を感じることもなければ、敵対するマフィアとの抗争に動員されることもなく、気に食わない幹部連中の命令で暗殺に出向くこともない、

おおよそ考えうる気が進まないと表現せざるをえないような仕事やら厄介ごとの数々に悩まされることがないという保証の確認だった。

ここは命の心配がなかった。

修史はあらゆる危険から離れて、暖かい寝床で眠れることがこれほど心休まることだと知らなかった。

修史にも生まれて物心付くまでにはそんな時間があったのかもしれない。しかし記憶の中には、少なくとも思い当たるものはなかった。

 

モラトリアムはいつか終わる。

その足音が少しづつ近づいていることは、通信で何の情報の提供がなくとも感づいていた。

 

1つは、明らかに潜入するエージェントが増えているということ。

鋭い視線、警戒の気配、人が集まる空間で、そうしたモノを感じることが劇的に増えてきている。

もともと、良家の子女が多く通う学園、そういったものは潜入した当初から感じたものだが、ここ数ヶ月というものその動きは顕著だ。

襲う側か、護る側か、その判別は容易ではないし、誰がエージェントなのかの判別も困難だ。

しかし明らかなのは、その出入りや移動が確実に増加したこと。

 

 

もう1つ、そして確実にな動きとして、笹塚隆平の急な離職。

あまりにも唐突な変化で、ついでに笹塚の身のこなしも普段から感づくものがあったので、ファランクスに問い合わせた。

結果は、なんとも無愛想かつお役所仕事な返事。

腹が立ったが、腹を立てても仕方ないとなんとか抑え、丁寧に質問を重ねていくと少しだけ情報を漏らした。

最初から言えよと思ったのは責められないだろう。

笹塚はファランクスの息がかかったエージェントだった。

となると額面どおりに離職したと受け取れるわけがない。

 

(十中八九、排除された……そういうことか)

 

そして排除されたのならば、いくつかの可能性しかない。

何らかの命令により行動に出て、ガーディアンに阻止され失敗した。

もしくは何のアクションも起こさないうちに面が割れ、捕捉された。

後者の可能性は低い。

笹塚もプロ、顔が割れているわけではないだろう。そうならば、この仕事そう簡単には続けていられない。

確実にファランクスは動き出したということになる。

そして、敵のガーディアンはきわめて優秀だと言えるだろう。

敵中深く潜入した手段を選ばない暗殺者を、退けた上にターゲットを護りきった。

それは如何なる経緯だったにせよ優秀、という形容を与えられるべき手腕だ。

 

始まった。それは間違いない。

眠気を覚ますために、少しづつ考えを進めるにつれて感じていた不安が形になっていく。

 

(……っ! そうだ! 最大の問題は……)

 

「……ターゲットは誰だった?」

 

自ら発した小さな言葉が、一人の学生に与えられるには広い寮の部屋に、奇妙に響いた。

修史は頭を思いっきり殴られたような衝撃を覚えた。

一度顎を強打され失神したことがあるが、あの感じに似ている。失神せずあの衝撃を味わい続けたらきっとこういう感じなのだという衝撃だった。

湿気の残る髪から急速に熱が奪われていく。

照明が一段暗くなったかのようだった。

 

「……なんでそれをまず先に考えなかったんだ……!」

 

己の馬鹿さ加減に腹が立った。

 

笹塚に命じられたターゲットが誰なのか。

このテレジアには数多くの良家の子女が通う。

政治的に、もしくは経済的に狙われる可能性は誰にでもある。

適当に選んで人質としたなら、相当な身代金を皮算用できる、文字通り宝石よりも価値のある少女たちだ。

誰であってもおかしくはない。

そう、誰でもだ。

例えばクラスメイトの誰か。

脳裏に、クラスメイトの椿原蓮の笑顔が浮かぶ。

 

「……っ」

 

室内の空気が一段と重くなった気がした。いつも爽やかに感じる朝の光が頼りない。

電灯の明かりが放つ光すら、どこか暗く感じた。

頭を振って、いやな気分を振り払おうとしたが、ズンと重いものが腹に落ちたような感触が残った。

 

(そうだ、俺は殺し屋だ。 いつ命令が来るかわからない)

 

(こんな綺麗な学園で過ごしていること事体が間違いだ。正しく羊の中に狼がいるってことか……)

 

いつかモラトリアムを破る何かが近づいてくる。

夜が明けるたびに、確かに近づいてくる。でもそれがどこまで近づいたのかはまるでわからないのだ。

1分先か1年先かすらも。

 

漠然とした不安に戸惑い、この状況の不安を思いながら、信じてもいない神に無性に祈りたくなった。

今日一日、つつがなく暮らせますように、と。

 

ふと、修史の体から緊張が抜けて、自然と笑いがこぼれた。

 

(誰がターゲットかなどと考えて、どうする?)

 

「誰であろうと関係ない……」

 

それでも考えてしまった。

 

「……ちくしょう」

 

タオルを思いっきり投げ捨てて、扉に向かった。

今は考えても仕方のないこと、とひとまず頭の奥においやって、今日の営みを始めようと、ドアを開けて廊下に出る。

彼の頭の中に残り、消えない重い残滓を感じながら。

 

 

 

 


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